意識は本当に脳が作っているのか
「意識は脳の電気信号が作っている」はほとんど常識の扱いを受けているが、この常識はかなり薄い根拠に乗っている。 意識と自由意志について、私が引っかかっている点を並べてみる。
相関はあるが、因果は示されていない
脳の発火と意識体験の対応は、麻酔・脳損傷・脳刺激といった介入でも再現される頑健なものだ。 心的状態と脳状態の対応は古くから心脳相関と呼ばれてきたが、意識研究が扱うのはその一部、意識の神経相関 (NCC) ― ある意識体験が生じるのに十分な最小の神経機構 ― である。意識に上らない情報処理にも脳状態の対応はあるからだ。
だがこれはあくまで相関で、以下のどれなのかは決着していない。
| 立場 | 主張 |
|---|---|
| 因果 (発火 → 意識) | 発火が意識を生成する |
| 因果 (意識 → 発火) | 意識の側が発火を引き起こす、あるいは相互作用する |
| 共通原因 (交絡) | 発火と意識は別々の事象だが、第三の要因が両方を引き起こしているだけで、両者の間に因果はない |
| 同一性 | 発火と意識は同じ一つの事象である。相関させるべき二つのものがそもそも存在しない |
介入実験で示せるのは「発火を止めると体験の報告が消える」ことまでで、報告が消えることと体験が消えることは同じではない。 物理的な機構をいくら精密に記述しても「なぜそれに伴って体験があるのか」には届かない ― 意識のハードプロブレムである。
唯物論を仮定するとどうなるか
以下は意識が脳の物理過程にほかならないと仮定した場合に残る問題である。発火が意識を生むのか、発火が意識そのものなのかは問わない。どちらでも同じ問題が残る。 仮定自体が示されているわけではないが、最も広く採られてはいる。
結合の問題
何百億のニューロンがそれぞれ独立に発火しているのに、私が知覚するのはひとつのまとまった意識である。 なぜ束ねられるのか。これが結合問題だ。
これは「なぜ隣の人の脳の発火は私の意識にならないのか」と同じ問いである。 束ねる条件を言えたなら、どこで切れるかも同時に言えているはずだからだ。 発火が意識を生むという説明は一つの意識の範囲を何が決めているのかを指定できない。頭蓋骨は物理法則にとって何も特別ではない。
連続の問題
活動電位はミリ秒で発生して消える。 電気信号が意識の実体なら意識もミリ秒ごとに生成されては消えているはずだが、なぜ私は同じ意識が続いていると感じるのか。
続いている証拠として私が持っているのは記憶だけで、その記憶は今この瞬間の脳の状態でしかない。
ラッセルの5分前仮説
バートランド・ラッセルは、世界が5分前に記憶や記録をすべて備えた状態で創造されたという仮説は経験的に反証できないと指摘した。
意識も同じだ。数十年分の記憶を引き継いだ意識がたった今発生し、次の瞬間には消えるのだとしても、内側からは区別がつかない。 連続性は観測された事実ではなく、記憶から遡って構成された物語かもしれない。
どこまでのものが意識を持つのか
電位差は脳の専売特許ではない。 「電気的な活動が意識を生む」を額面通りに取れば、ほぼあらゆるものが意識を持つ ― 汎心論に近づく。
汎心論は物理学の「悪魔」のように反直観的なものとして扱われるが、私はそう思わない。 石や雷雲は記憶を持たず、時間を跨いだ文脈を保持する機構もない。整合のとれた意識には記憶という文脈が要る。 汎心論が正しくとも、そこから出てくるのは生物のような統合された意識ではなく、瞬間ごとに途切れる何かでしかないだろう。
もっとも、これで結合問題が解決するわけではない。微小な意識をいくら足してもなぜ一つになるのか ― 同じ問いが汎心論の側に跳ね返る。
私見: クオリアと受け手を分ける
結合の問題には、唯物論の仮定を降りる抜け方もある。 脳が作り出すクオリアと、それを受け取る主体を分ける。束ねているのは発火の側ではなく受け手の側だ、という見方だ。
- 前節の汎心論も避けられる。脳の外の電位差がクオリアを発生させていたとしても、受け取る主体がいなければ誰の意識にもならない。
- 意識 ≠ 魂という構成になる。意識は脳が作るが、それを受け取る魂と呼ぶべきものが別にある。
- 問いを解いたというより移した形で、受け手が何でありなぜ一つなのかは残る。
自由意志は存在するか
どちらに仮定しても矛盾が出る。
存在しないと仮定する
意識は物理過程に随伴するだけで意思決定に影響しない ― 随伴現象説である。 物理法則とは矛盾しない。代わりに二つの矛盾を抱える。
- 意識が適応であることと矛盾する。 行動に何の影響も与えない仕組みを自然選択が選ぶことはできない。これほど整合のとれた意識は適応ではなく偶然の副産物だということになる。
- 我々が意識について語れている事実と矛盾する。 意識が物理領域に影響しないなら、私が今こうして「意識がある」と書いているという物理的事象は、意識の存在とは無関係に生じたことになる。語りの原因が意識でないなら、その語りが意識について正しいことを何が保証するのか。脳に生まれつきその知識が偶然埋め込まれていた、という筋書きでも持ち出さない限り繕えない。
存在すると仮定する
意識が意思決定に関与するなら、意識は物理領域に影響を及ぼす。 これは物理領域の因果的閉包性 ― すべての物理的事象は物理的原因を持つ ― と矛盾する。物理学の実験的成功に支えられた前提であり、捨てるのは安くない。
どちらにも矛盾が残り、この二択は決着していない。
まとめ
- 発火と意識の相関は固いが、因果の向きは示されていない
- 唯物論を仮定しても、一つの意識の範囲を何が決めているのか (結合)、なぜ続いて感じられるのか (連続) は未解決
- 自由意志があるとすれば、物理領域の因果的閉包性と矛盾する
- 自由意志がないとすれば、意識が適応であることとも、我々が意識について語れている事実とも矛盾する
答えは出ていない。 ただ「意識は脳の電気信号である」という常識が、これだけの未解決問題を抱えたまま流通していることは知っておいて損はないと思う。